◎万物の霊長として価値のある、あいよかけよの喜びに浸らしてもらえる生活がある。そういう生活を大きな意味合に於て、「道理に合う信心とは、そういう信心」まるきり私はポストんごたる感じ。ただ一生懸命働かして頂いているだけ。それももう、言うならば、慎み慎み。それでいて、私共の心の中にはほんとに赤いポストじゃなかばってん、ますます赤くなる。ますます、いわゆる有難くなってくる。おそらく、これが終生続くであろう。「金が貯まる事が幸せ」といった様な考え方の焦点の中には、喜びは湧かん。善導寺から合楽。Q

%1なに不自由ない人、何かにすがらなければおられない、寂しさがいつもあると。

%2親先生のもったいない有り難いの内容。

%Z善導寺、勿体島、椛目、常持、合楽、のご理解


昭和四十三年二月八日 朝の御理解


X御理解第七十節 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」


 道理に合う信心とはどういうような事か。万物の霊長であるから、霊長としての値打ちを作っていくとは、又、道理に合う信心とはどういう生き方を言うのか、考えてみたいと思います。万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよ。なる程、人間は万物の霊長である。万物の霊長であるけれども、万物の霊長として価値のある人間が、どのくらいあるだろうか。又、道理に合う信心をさして頂いたら、どの様な結果になるだろうか。道理に合う信心とはどういう事か。

 %1昨日、北野の秋山さんのお導きで久留米からお参りになった方があった。いつ見えても、何とはなしに有難そうにしておられる。十年余りの商売の上の付き合いであった。そして、いつも椛目、椛目と言われる。そして十年も付き合いをしょってから。最近話を聞いたところが、「一家を上げて合楽の金光様の信心をさして頂いている」という。

 %1全く幸せというのが違う。主人の商売は繁盛している。まあ何ひとつ不自由なく、今のところ別にどうという事はないけれども。これだけでは、その何とはなしに、最近は何かにすがりたい気がする。そのすがる対象を暗に求めておられるところに、秋山さんが来られて、「連れて参ってくれ」と言う事になって、参って来た。

 %1そして話を聞きますと、商売は繁盛しているようである。風采から言うても、何ひとつ不自由なさそうである。それでもやはり、どうぞ主人の商売が、ますます繁盛致します様に、息子の勉強がでけます様に、家庭がいよいよ円満にいきます様に、頼む事がないと言う訳なんですね。それでいても、やっぱりどこにか何かすがらにゃおられんものがある。

 %2昨日、私と家内と久富先生と三人、何かの話からいろいろ話しておりました。考えて見ますと、「私ぐらい馬鹿ごたる事はなかですばい」という話からです。朝の四時から晩の十二時迄、まあ言うなら、それこそ外にも出らん。もうほんとに、好きなものを何ばいちゅうて頂きよる訳でもないし。これが食べたい、あれが食べたいと言うて、食べる事もせん。もうお下がりに依存しておる。

 %2これでも夫婦、ここ終戦この方布一寸買うた事がない。また買われん事にしとる。ほんとに考えて見ますと、毎日、ここであんなにお初穂の整理さして頂いて、沢山のお金を数えてはこの中に入れとくと、銀行がちゃんと取りに来る。まるきり私はポストんごたる感じですよ。もうほんとに、ちょいここを通るだけなんです。

 %2いわゆる働けど、働けど暮らし楽にならざるという訳ではないですけれども。ただ一生懸命働かして頂いているだけ。それももう、言うならば、慎み慎み。夕べ家内が休む時は、十二時近かった。お風呂まだと言う。とにかく、どうしてお前今までに入らんか。ずーっと勝手の方の御用が続いている訳なんです。

 %2話聞いて見ると、風呂に入る暇もなか、それで入ってちゃんと温もって、休んだらいいじゃないかと言うて、私は眠ってしまっとったら、今朝から家内が言いよります。夕べ温もりきらんで、寒うしてこたえんじゃった。風呂に入ったら誰か栓を抜いとる。まあ、そういう様な、言うなら、毎日を私共は繰り返しておる。別に金が貯まっていきよると言う、楽しみもなからなければなあにんない。

 %2考えてみると久富先生、「私どんぐらい、馬鹿らしかもんはなかごたる」と言うて話した事でした。それでいて、私共の心の中にはほんとに赤いポストじゃなかばってん、ますます赤くなる。ますます、いわゆる有難くなってくる。おそらく、これが終生続くであろうか、これが考え方を一寸変えると、ほんにこげな馬鹿らしか事はなか。

 %2ほんとにお金でも、自分の思う様に使えん。それはいかにも不自由のごたる。けれども、それを使えないじゃなくて使わない。使わなくて済むという事。それが当たり前の事として毎日を過ごさして頂いて。ほんとにポストのごたる御用をさして頂いておりますけれども。いよいよ有難い。それはどういう様な訳で有難くなっていくのであろうか。

 %2皆から、「親先生、親先生」と言うて、神様んごと大事にされて、こんなに大きい御殿のごたる住まいに住まわれてから。「そりゃ、有難かつが当たり前ですよ」と言や、なる程、そうでもある。けれども、只、そんなに「大将、大将」と言われているだけで幸せだろうか。ほんとに御殿のごたるお家に住んでいるだけが幸せだろうか。それは幸せには関係しない。

 %1かと言うて、そんなら昨日、お取次させて頂いたその方の様に、何ひとつ不自由する事はない。欲しいならなんでも買える。着れる。食べれる。それこそ指輪でも、両方にこうしていくつでも指してございました。立派な指輪を求められたものであろうと思いますが。それが、それこそ幸せかと言うと、「どこにか、何かにすがらなければおられない」と言う、寂しさがいつもある。商いに見える、秋山さんの方がむしろ幸せに見える。なんとはなしに、いつもニコニコしとんなさるが。信心さして頂いとるものは、それけんで、あなたは違うと思いなさった。で、連れて参ってこられた。

 %1%2結局、万物の霊長であるところの値打ちを創るという精進をしなければ。片一方は、万物の霊長である値打ちを、いよいよ頂いていくという事を楽しみにしておる。そこの違い。

 %1昨年、家を増築された。で、何々様にお尋ねに行ったら家相が悪か。それを崩してから、また建て直されたと言う様な迷うた生活をその中にしてある。ですからお道の信心は、そういう道理に合わない信心でなくて、どこまでも道理に合う信心。しかも、その道理に合う信心が、私共の生き方の上にも道理に合う生き方。

 %Zそれで私、その方にお話をします。それをこじ付けと言ゃあ、こじ付けと言えん事はないけれども。こじ付けただけではこげん見事に合わない。それもその事だけじゃない。もう一時が、万事になる程、なる程と合点のいく様な事ばっかりがあるが。

 %Zたとえて言うならば、私共の両親が善導寺の荒巻弓次郎先生のお導きを頂いてからおかげ頂いて、いわゆる「善導」である。バスの停留所の名から。これはね百年、二百年の前から決まっている事じゃない。言うならば、千年も万年も前から、そういう事になってこういう事にならして頂くと言う、神定めのまゝに。言うなら、そういう運命のまゝに、合楽はここにおかげ頂いておる。

 %Z良いお導きを受ける。良い伝導を受けて、そしておかげ頂いて、金光様の信心ちゃ有難いもんじゃある。勿体ないもんじゃあると言うて、「勿体島」になって来る。善導寺から合楽までのバスの停留所の名前を言うて話しております。信心ちゃ有難いもんじゃあると言うて、有難い、勿体ないという事が分かってきた。

 %Z椛目に来て、いろいろな苦労をさして頂いたけれども、段々信心の有難さが分からして頂きよりましたら、大坪一家だけでなくてから沢山の人が助かるようになって来た。皆が、椛目、椛目と言うて、参って来るようになって来た。心に頂く信心の喜びと言うものを、本当に楽しみに、「椛目、椛目」と言うて、参って来る様になって来た。「椛目」という字は、木辺に花と書いてある。木は心と言う。自分の心の中に、花が咲く。

 %Zそれこそ、[空海の心の中に咲く花は、弥陀より他に知る人ぞなし]という信心をしなければ分からない。頂けない、喜びの花が咲く。私と神様の間しか通わない。他の者じゃあ、分からないと言う様な、喜びの花が咲く。そういう喜びをです、じっと持続し続ける、持ち続けるところに、「常持」になる。

 %Zそして、そういう喜びを持ち続けさして頂くその喜びがです。もう私とか、私に関係ある人間だけでなくてです。それが神様のお喜びに通うようになって来た。神も立ち行き、氏子も立ち行きという事になって来た。「神も喜び、氏子も喜び」という事になって来た。いよいよ「合楽」である。

 ちょっと言うと、こじ付けたごたるけれどもこじ付けたじゃないです。「地名ひとつの、その名がです。そういう順序を追うて、私共がそういうおかげを頂いてきた」と言う事でも。私達が、今申しますように、ちょっと考えを変えると、私ぐらい馬鹿らしい者はなかろうと。

 只、ちょいと、信心ちゃ不思議なもんじゃありますよねえ。私共が、おそらくはこの黒い黒衣で一生をおそらく終わるでしょう。それでいて、それが段々有難うなる。それでいてなんだか勿体ない気持がする。

 私は純毛の肌着類を沢山、お供え頂いとりますけれども。今年はおかげで着らんで済む。もう着とらん。これから先はひびが切れて、しびれるくらいにある。ちょいと考えて見ると馬鹿らしい。そげなあんた、持っとるのにわざわざ寒か思いせんでもと言うて。又、ある人は、そりゃそうでしょうあんたスチームどんが入ってから、お広前あげん熱かけん。なんのいろうかいなと言う人もありますけれども。

 着りゃ着た方が良か。そうけん本当にスチームでん入っとるお広前に、こうやって座らせて頂いておる。その勿体ないとがですね。「本当に勿体ない」という事になってくるのですよ。どげん思うたっちゃ着られんごとなる。それでいて私は有難いのですよ。どういう訳に、そんなに有難いのか。有難くなっていく。信心すれば、一年、一年有難うなってくる。

 良いお導きを受けて。そしておかげを受けて。ここんところ迄は、昨日、久留米から参られたその人と同じ事。信心してあれやらこれやらを願って、不思議なこつじゃありますばい。神様のおかげちゃ有難かばいと言う事が段々分かってくる。

 そして、そのおかげを受けても受けんでも。いわゆる信心の有難さというものが、段々身に付いてきて。いつも、その信心の喜びを、持ち続けさして頂くようになって。その信心の喜びがあっても食べん。あっても着らん。馬鹿らしい話しじゃけれども。

 それが有難いと言う事になってきて、それが神様の喜びに通うようになる。いわゆる神も喜び、氏子も喜ぶ、働き合になってきて。どうして、そういう中に有難いものが、いよいよ育っていくかと。私が、いよいよ赤いポストにならして頂いておるところに、それがあるんだと言う事になります。

 考え方を変えると、只、私はここで、きちっと座って皆さんがお供えなさったお初穂を、一枚、一枚こうやって皺延べる。そして、こうきちっと、一万円なら、一万円ずつして。さあ、十万貯まった、十万貯まったと言うてから、ニコニコしとる。貯まったけんニコニコしとるのは束の間、もう直ぐ銀行が取りにくる。だから貯まる喜びもない。ほんな、ちょいと扱うだけ。銀行と同じ事。

 ところが、皆さんはですねえ、こういう事を。それをですねえ、こんな馬鹿らしい事はないといった様な思い方が、まだすっきりとしていない。働くばあっかりほんな食べていくだけ。その働くばっかりがですわ、その合楽につながってないからなんです。神も喜びというところにつながっていないからなんです。そして働かして頂いておる。

 「ここに、こうやって、座りぬかせて頂いておるという事がです、有難い」と言う事になる。赤いポストを務めさして頂くことが有難い。毎日、毎日働きよるけれども、いっちょん残らん。もう無味乾燥なものである。馬鹿らしゅうなってくる。そういう働きではですね。例えば、「その貯まる事が幸せ」と言った様な考え方の焦点の中には、喜びは湧かん。

 いよいよ私が、一生懸命働かして頂いて、一生懸命沢山のお金をここん中に入れて。沢山のお金が入れてあると言う事は、沢山の働きをすると言う事。それだけ神様に本当にそうです。昨日、私、下がる迄、三百名からお届けさして頂いた。午前中に、もう言うならば、これが人に使われてからなんていゃあね。もうこげん馬鹿らしい事はないですよ。

 ところが、それが多けれけば多いほど有難い。そりゃあ、あゝた、お参りが多けりゃそがしこお供えがあってから、お金がそがしこ貯まる。貯まりおるとじゃなか。貯まるのはほんの束の間。銀行が皆持って行く。けれども、そこを本当にそう御用をさして頂いておる事が有難い。

 %2結局は、人が助かる事が出来さえすれば、こういう事なのである。 「人間万物の霊長という値打ち」と言うものは、私が本当に助かる。私は幸せ。あれにも恵まれ、これにも恵まれていると言うだけのものでなくてです。「その助かりが、それが人が助かって行く」と言う事につながらなければならない。

 %2私が働くいう事は、一生懸命働くという事は他がいくらかでも、楽になるという事。自分がこうやって一生懸命働いておればです、人が助かる。一生懸命働いておれば他が楽になってくる。それが有難いのだ。そこに万物の霊長としての値打ちを発揮するとは、そういう事なんだ。

 世の中には、例えば、昨日お取次さして頂いた様な、「人間関係の上にも、経済の上にも、健康の上にも何と言うて、別に神様に頼む」という事がなくて、参らん人もある。それでいて、やはり信心の喜びを持っている人を見ると、なんとはなしに違うごたる風に見えてきた。あゝなる程、信仰しなさるけん。あゝたがいつもニコニコしとんなさるばいなあと。私も、何かここにひとつすがらなければおられないという様なものを、最近感じる。

 %2ここ迄では、人間万物の霊長の値打ちはひとつもない。万物を見て道理に合う信心とは自分が助かって。「その自分の助かりが、自分が働いて、その働きが人の助かりに、人が楽になる事につながっていく」と言う事に、「御用さして頂いておる」という事が有難い。そこに私は、万物の霊長としての値打ちがある。

 それが、どうして道理に合うか。そこに私は、いわゆる、「還元の生活が出来る」と言うのは、人間だけだという事。少しでも働いて天地にお返しをする。少しでも働いて人が楽になるような働きをする。それが出来るのは人間だけだ。人間だけが出来る。私は生活をです、さして頂いておるのですけれどもです。

 そんなら、それが出来ておる人が何人あるか。そこに、あれも足らいこれも足らいはしているけれども。何とはなしに寂しい、何とはなしに、すがらなければおられないというものになってくるのです。

 だから信心は頂いておっても、善導の時代があり、只、勿体ないの時代があり、椛目の時代があり、常持の時代があり。そしてそれが、「合楽」という事になってこなければです。神も助かり、氏子も立ち行く働き。そういう働きの中にはですね、考え方を変えると、こげん馬鹿らしいこつはなか。赤いポストのごたるとじゃけん。

 けれども、本当の事言うたら、こげな有難か、生活はなかというものがそこから生まれてくる。信心して、おかげを頂いて有難い、勿体ないという時代だけではいけない。どこ迄も、「合楽を目指さなければいけない」と言う事である。自分のこの働きが、神様に喜んで頂く働きにつながっておるかどうか。働きが儲けさよすれば良かという事につながっておる。神様に喜んで頂く働きにつながっていないとするなら、これは考え方を変えねばいけん。

 そこに「実意丁寧神信心がある」と、こう思うのです。生活の中に実意丁寧。いわゆる神信心で、生活の中に染み込んでこなければいけない。そこには例えば、貯まらんでも有難い。働かして頂いておる事が有難い。そこに神の助かりがあり私共の助かりがある。そこに私は、人間だけでなからなければ出来ない、偉大な還元の生活が出来る。

 ここに徳が頂けないはずがない。その徳が、いよいよ私を有難いものにしていく。わざわざ自分から求めてでも、修行がしてみたいという気持になってくる。もっと修行がしてみたいという気持が生まれてくる。そこから私は、教祖の神様の教えて下さる「人間万物の霊長」としての、私は、その「万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよ」という事は、小さい意味でいろいろ説いてきましたですね。今日までは。

 様々なものを見て、いわゆる万物に合う、道理に合う信心という事を、先程申しますように、例えば、家相とか日柄の良いの悪いのなんてあるはずがない。万物の霊長であるところの見方をするなら。そげなこつのあるはずがない。

 私は支那に長い間おりましたが、支那では家相とか日柄とか絶対言わんです。けれどもやっぱり、支那には支那の迷信がある。アメリカ人なんかは家相やら言やせんです。けどもアメリカには、アメリカの迷信があります。何処の国でも、やっぱ同じ事。迷信に左右された、世界の狭い生活をしておる人間がです。教祖の神様の教えに、ひとたび合う時、「こげな馬鹿げた事はなかったと分からしてもらう」という事がです。道理に合う信心だと説いてきたですね。

 今日はですね。「人間万物の霊長であるから、道理に合う信心をせよ」という事をです。もう一番大きな、言わば、視野を持って、一番大きな道理に合う信心というところに、焦点を置いて、大体お話をしたつもりなんです。けれども、善導寺から合楽までのその事も、そこの過程を通らして頂いて、本当に合楽のおかげを頂くところからです。馬鹿らしさもなからなければ、不平もなからなければ、不足もない。

 いや、只、その事が有難いという事である。いわゆる教祖様が教えておられる、おっしゃっておられたと言う、「人が助かる事が出来さえすれば」という事になるのであり。自分の働きが周囲を楽にしていくという働きさえ出来ればという事であり。それがいわゆる、金光様の御信心の、いよいよ神も助かり氏子も立ち行く、神も喜びなら氏子も喜び。そういう立ち行きがです出来てくる。

 お互いが赤いポストを目指さなければいけない。そこに本当のあいよかけよの生活と言うか。あいよかけよの喜びに浸らしてもらえる生活がある。そういう生活を大きな意味合に於て、「道理に合う信心とは、そういう信心であろう」と言う事を申しましたけれども。なんか、こう話し足らぬ感じですが。皆さんよく考えて下さい。

 だから、そこ迄、お互いの信心がいっていない訳なんです。その証拠には、毎日、毎日働きよるばっかり。いくらかしか儲からじゃった。はあ、こがしこ金が貯まったと思うたら、もう出さにゃならんと。信心しょっても、言うたり思うたりしやせんだろうか。その間は、まだ本当の合楽にはなってないのです。道理に合う信心をしとらん。

 それでは、只、おかげの事だけしか心にない。一生懸命働かしてもろうて、一生懸命沢山のお金を儲けさしてもろうて。それがいわば、全部もうさあっと出てしまわれても。「それが大きければ大きいだけ、働きが大きければ大きいだけ有難い」という事になってくる生活。

 そこには、もう不安のない心配のない、もう本当にポストのごたる生活がでける。何にもないそういう生活がです。人間万物の霊長としての値打ちのある生活とはそういう生活なんだ。そういう私は生活の出来れる道を、教祖の神様は「身を持って教えておられる」という事である。それをひとつ見方を変えると、信心のない人が見ると、そげな馬鹿らしいこつがあるもんかという事になってくるのです。

 昨日も家内と久富先生と三人で話したように、こげん馬鹿らしかこつはなかのという事になってくるのです。先生はそげなこつ言いなさんな。自分の好きなもんどん買うち来なさらんのう。銀行にばっかり、やりなさるこつが、いろうかいなという事にも、なりかねないのですけれども。

 例えば、その事を私、このシャッの事で申しましたですね。持っとる持っとるけど、なんか勿体ない気持で身に付けられない。そして私は、こげな馬鹿らしいこつじゃなくてです。有難い事になっておる。それを例えば、信心のない考え方信心のない見方をすると、こげな馬鹿らしい事はない事になる。そこに有難いが分からしてもらう信心をしたいと思いますね。どうぞ。